えばたストーリー ~「えばたたかこ」ができるまで~【第二話】
「これからの時代は、やはりコンピュータ!」
~まだまだ珍しかった女性エンジニア時代~
富士通入社1年目。手前に座っているのがえばた。
横浜国立大学を卒業後、「これからは、やはりコンピュータ」という理由で、技術職(システム開発)として富士通株式会社に入社。ちなみに、富士通が女性エンジニアを大量採用するようになって、2年目のことでした。3000名いた同期入社のうち、大卒女子は220名。
私たちは「大卒男子」として扱われていました。
入社後は「社会に役立つコンピュータを!」という理由で、銀行のシステム開発を希望しました。
そのとき私自身はまったく気がついていませんでしたが、そのシステム開発への希望が、ちょっとした騒ぎに…後々大変な騒ぎになることに…。
「女性なのに、銀行をやりたいという新入社員が入ってきた!」
当時、銀行のシステム開発は完全な男社会だったのです。無鉄砲な新入女子社員の希望に困った上司が「誰かもう一人、女性スタッフを組み合わせるなら…」という打開策をとってくれたおかげで、同期の新卒女性と二人で“金融システム開発部門”へ無事配属されました。
北海道銀行のシステムセンターで。
当時のコンピュータのようすが、おわかりいただけるでしょうか。
富士通時代のスナップショット。
いまとあまり変わっていないかも?
早速「ばりばりプログラミングするぞ!」と熱意を燃やしていたところに「君には、ドキュメント(文書)管理をやってもらう」と、課長からの一言が。「車を作るにも、ただエンジンだけ設計していては、本当の意味で車がどう作られているかはわからないだろう? まずは文書管理をすることから、金融システムがどう出来上がっていくか、全体像が見えていくんだよ」今から思えば、とてもありがたいお言葉です。しかし、念願だった部署に配属され、やってみたいことが山ほどあった私にとっては、まるで冷や水をかけられたような気分でもありました。
というわけで、富士通での初仕事は“文書管理チーム”からがはじまりでした。ひたすらコピー取りとメール配送(※当時は電子メールはなかったので、文書での社内便)を担当するのが、表向きの職務。そうはいっても、どうしてもプログラミングをしたいという思いは消えず、協力会社に頼みこんで、銀行の窓口係が使用するキーボードの入力プログラムのお手伝いをしていました。そして入社2年目、やっと「通帳プリンタ」のプログラム開発に参加することに。無事、通帳に「入金XXX円」と印刷できたときの感激は、今でも忘れることができません。
海外の金融システムの仲間たちと。
女性の泊りがけ出張は皆無だった、当時の“勤労課”とのやりとりは、「北海道銀行の仕事ですから、札幌に行きます」「代わりに行ける、同期の男性はいないの?」といった具合で、許可をとるのも一苦労でした。やっと地方出張への許可がおりたと思っていたら、なんと次の仕事は海外の銀行に。 「メリーランド・ナショナル・バンク」「シティ・バンク」「カリ・ファースト(当時)」など、アメリカの銀行をいくつか担当することになり、主な出張先はニューヨーク、バルチモア、サンノゼ、サンディエゴの4都市でした。そうやって、海外での仕事や社外の交渉も任せてもらえるようになったころ、ふと「これでいいのかな?」という疑問が湧き上がってきたのです。
富士通の海外駐在向け研修に、女性として初参加。
「私が開発しているシステムは、銀行にとってどういう風に役立っているのだろうか? 処理スピードが上がっていることは、もちろん理解できる。人手も減らせていると思う。でも、それらが銀行の経営に与えている影響について、具体的にはよくわからない」そう、私はずっと理系肌だったために、為替のことも経済のこともまったく理解していなかったのです。そこでいきなり「経営について勉強しよう」と思いたち、「経営を勉強するなら、米国のビジネススクールに行くのがベストかもしれない」そんな考えがひらめきました。しかし、いわゆる「企業内派遣」が全盛だったとはいえ、私は女性、しかも技術者のために「自費」で行かざるをえない事実に気がつきます。その総額が2年間で1000万円近くかかると聞いて、さらに愕然。当然そんなお金は、持っているはずもありませんでした。
第三話 大好きだった父が認知症に。~日本に想いを残しながら、MITでの留学生活~につづく


