えばたストーリー【介護、育児、仕事】

えばたストーリー ~「えばたたかこ」ができるまで~【第五話】

母の介護、育児、仕事。そこから得たものとは?
~介護を通じて感じた「制度への違和感」~

 間質性肺炎を悪化し、呼吸もままならない母の介護について、在宅介護サービス事業者に問い合わせてみると「同居者がいると生活介護は受けられない」といわれました。

 「同居者が働いていてもですか?」と尋ねたところ「働いている、働いていないは、関係ない」という回答が。
あれ、なにか変じゃない…?その応対に違和感をおぼえました。そして、我が家では「誰が誰を」「どう」面倒をみるかで、毎日がほとんどケンカ状態に。「親の面倒をみるのは子のつとめ、さらに息子のケアもしてあげなくてはいけない…。はたして私に、娘と母、そして企業人の三つの役割を果たせるのか?」悩む日々が続きました。
stories5_01.jpg    国際女性ビジネス会議にて。
 約半年間の話し合いの末、「私が会社を辞める」という結論に。3ヶ月の移行期間をもうけ、取締役の任務を離れることになりました。母は自分のせいで娘が会社を辞めることを悔やみ、自身を責めていたと思います。私も内心では「これで自分のキャリアも終わりだろう」と感じていました。本社の米国人社長が日本にやって来た際「取締役としての責任を、最後までまっとうすることができなくて申し訳ない」と謝罪する私に、彼は「一番が自分の健康。二番目が家族。仕事は三番目でかまわない。恥じることも悔いることもなくていい」と温かいことばをかけてくれたときには、とてもうれしかったです。

 会社を辞した翌年の正月のことです。年賀状で知らせた「仕事からの退任」に、友人からの電話が何本も鳴りました。私が一切の仕事から手をひいたことは、友人たちのあいだで「青天の霹靂」として捉えられたようです。みんなから惜しむ言葉をかけてもらいましたが、「母を、父の二の舞にしてはならない。父には最後まできちんと向き合ってあげられなかったぶん、母には向き合おう」という私の決意は、固いものでした。

 母の介護を通じて、私のなかである違和感が大きくなっていきました。それは「介護制度が、ユーザーである生活者のことを見ていない」ということです。その違和感は次第に「社会システムを変えてみたい」そういった思いになっていきました。そんなとき、民主党が公募をおこなっているとホームページで知り、締め切りぎりぎりの日に、速達で履歴書を送ったのです。そして、書類審査、面接を経て、民主党の公認候補予定者としての合格通知をいただきました。

stories5_02.jpg円先生とともに。彼女との出会いが、 政治家「えばたたかこ」の誕生の 始まりでした。
 ある日、我が家での介護体制が整ったころです。家でなにげなくテレビの国会中継を観ていたら、質問に立っている議員のなかでひときわ凛とした女性の姿が印象に残り、「こういう女性議員もいるんだ」と感じました。それが、参議院議員の円より子先生でした。彼女のホームページを見ると、『女性のための政治スクール』をおこなっているとのこと。連絡してみたら、すでに3回ほど始まっているが4月からなら参加できると聞き、すぐさま申し込みました。やがて、この『女性のための政治スクール』では、副校長として、その企画や運営に参画するように。

 母の病気のほうはといえば、進行を食い止めるだけで、根本的に治す方法はないといわれていました。そんなときに、東京大学の経営の手伝いをしないかという話が舞い込んだのです。それも、週に2~3回の勤務で大丈夫だということで、育児・介護との両立も可能だと判断しました。東京大学の経営に参画することは、ただ単に一大学の話には終わらず、日本の高等教育全体に関わる問題に接することになります。政策の一つの柱として「教育」を考えていた私は、その仕事を引き受けることにしました。母も、ものすごく喜んでくれました。

 2005年6月、東京大学学術企画調整室の助教授に。学部、研究所などにこだわらず、本部としておこなう横断的なプロジェクトの企画・運営支援がその任務でした。たとえば、社会人教育をどうするのか、マネジメントスクールをつくるのか、などといったことです。そのひとつとして「プレジデンツ・カウンシル」(※)という海外の有力者による総長のアドバイザリー・ボードの設立、運営に携わりました。(※・プレジデンツ・カウンシル/東京大学が国際的にももっと認知されるように、東大の総長が世界の要人と意見交換し、助言や支援を求める場としてつくられたもの。タイの王女からノーベル経済学賞受賞者まで、15カ国28人からなる多彩なメンバーで構成されています。)

 翌06年6月には、アステラス製薬(2005年に山之内製薬と藤沢薬品が合併してできた会社。医薬品業界第三位)の社外取締役に就任しました。アステラス製薬は日本発の国際企業であると同時に、医薬業界においても常に先端を行く会社で、取締役も9人中5人が社外という構成です。この職務に就いたのも、日本の医薬品産業や日本企業の経営のあり方の一助を担えればと考えての決断でした。

 07年2月に、母が自宅で他界しました。「もうそろそろ入院しなくては、でも息子の中学受験があるから、それが終わってから…」と、家族で話していたときでした。いま息子が通っている学校の合格発表があった日の夜に、安心したかのように息を引き取りました。
stories5_03.jpg大分県由布院にて、家族三人で。
 私はいったんキャリアをリセットすることで、ゆっくり母と向き合い、なんとか介護の体制をつくっていくことができました。最初は「他人(介護ヘルパーさん)が家に入る」ことを嫌がっていた母も、やがて受け入れるようになり、また、他界する前年の秋ごろからは、母は寝たきりになってしまったので、私自身の仕事との両立も介護ヘルパーさんたちの協力なくしては、なしえなかったと思います。しかし、実際には、介護によって仕事を辞められない人もいます。私も経験しましたが、同居をしている限り、生活介護は受けられません。その結果、世帯分離を引き起こしたりしているのが現状です。“介護はリスクを伴うもの”と、家族間のなかで最初から放棄されるようなことがない社会にしていきたいと考えています。

 その後、07年4月に「プレジデンツ・カウンシル」の担当のまま、国際広報の支援のために、広報室准教授に。プレジデンツ・カウンシルは、第1回東京会議に引き続き、第2回会議をロンドンでおこない、海外メディアへの発信や、ロンドン在住の日本人会と交流を企画、実施しました。さらに、11月におこなわれた第3回会議では、関連部局との連携企画を4本開催。一般公開することにより、PCメンバーと教員、職員、学生たちとのディスカッションを導くことができました。この「東大130周年記念事業」を機に、東大を辞任。「えばたたかこ」として、いよいよ政治の世界へ足を踏み出すことになりました。

そして、政治家・えばたたかこの物語は、まだまだ続きます。

☆今後の「えばたたかこ」については、ブログで公開していきます